ス ナ ッ プ 写 真   
 
 
 

 
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出雲大社その3。「幸魂奇魂」という銅像がありました。「むすびの御神像」で大国主大神が、生きとし生けるものすべてが幸福になる「縁」を結ぶというもので、男女の縁を結ぶだけではありません。いろいろな願いを込めて引いたおみくじが、このようにビッシリと結び付けられていました。
(2009.09.20)
出雲大社その2。出雲大社といえば、象徴的な拝殿にあるこの大きな注連飾りですよね。太さ3m、長さ8m、重さ1500kgだそうです。本殿は、このように現在工事中でした。平成の遷宮ということで、平成20年4月にスタート平成25年5月に完成だそうです。
(2009.09.18)
島根県出雲市大社町にあります「出雲大社」に行きました。祭神は、神話の「因幡の白ウサギ」で白ウサギを助ける大黒様の「大国主大神」です。そして、縁結びでも有名ですよね。
(2009.09.16)
岡山市にある「吉備津神社」です。吉備だんご・・・鬼退治で有名な桃太郎伝説が伝わる神社です。この本殿は国宝に指定されています。
(2009.09.13)
播州赤穂といえば「赤穂塩」ですよね。工場で生産される塩より天然塩が、甘みも感じられいいものです。写真は、「入浜式塩田」です。
(2009.09.09)
夏の名残の花三題です。左から「オニユリ」「フヨウ」夏の暑さに負けず100日間赤い花を咲き続けることから名付けられた「百日紅」と書く「サルスベリ」です。
(2009.09.05)
道端から見られた食べ物三題です。左から「ゴーヤ」「無花果」「富有柿」です。
(2009.09.01)
紫色と白色のキキョウとコスモスです。桔梗は、やはり紫が桔梗らしく感じられますね。秋桜も、ピンクがコスモスらしい。
(2009.08.28)
今日は、秋を思わせるような涼しい風が吹き爽やかな一日でした。あの蒸し暑さはどこに行ったのやら・・・・空には秋の雲、うろこ雲。稲もこのように稲穂が見えるようになっています。実りの秋はもうすぐですね。
(2009.08.25)
夏の朝、田園を散歩というより運動ということで、早足で歩いておられる人を多く見られます。それを夏の花「向日葵」や「クマゼミ」が見送っていました。そのセミですが、昔は「アブラゼミ」がほとんどでクマゼミの鳴き声はあまり聞くことはできなかったですが、今は熊蝉の鳴き声が油蝉を圧倒しているように思えます。
(2009.08.23)
近くの休耕田に植えられている「蓮」です。ハスの花弁は、何とも言えない暖かみのある色をしていますね。
(2009.08.21)
赤穂といえば赤穂浪士ですが、伊和都比売神社の近くの海岸に「大石名残の松」というのがありました。赤穂城開城を成し遂げた大石内蔵助は、元禄14年(1701年)6月に妻子をこの港より大坂に送り出し、自らは6月25日に後を追って山科に向かいましたが、その時に御崎に岩壁に立つ老松を見て名残を惜しんだと伝えられています。
(2009.08.19)
昨日は、京都五山の送り火でした。大文字焼きという人がいますが、それは誤りでお盆でお迎えした祖先を見送る宗教的行事なのです。京都駅ビルから見たので遠くに小さく見えただけですが、五山が一応見えました。左から「左大文字」「妙法の妙」「船形」です。
(2009.08.17)
京都市東山区にある大谷祖廟にお墓参りに行きました。昨日は、秋のような涼しい風があったのですが、今日は一転暑い日となりました。いつもなら五条坂からの東大路通りは大渋滞なのですが、どういうわけか今日は空いていました。墓参者が供えた花で今年は「念仏」という文字が作られています。昨日から万灯会の行事が行われています。今年も元気に来られたことが何よりです。
(2009.08.15)
赤穂市御崎に、伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)があります。日露戦争開戦前に東郷平八郎が勝利祈願に訪れたことから、海軍関係者の信仰を集め歴代の連合艦隊司令長官が艦隊を率いて海上から参拝したそうです。現在も航海安全、大漁祈願など海上から参拝が行われているそうです。振り向くと鳥居の向こうには、このように瀬戸内海が広がっています。
(2009.08.12)
兵庫県赤穂市御崎に行きました。そこから見た瀬戸内海です。遠くに小豆島が見えました。良い天気でしたが、それにしても暑い日でした。
(2009.08.10)
城陽名産の寺田イモや稲も、順調に育っているように素人目には見えますがどうなのでしょうか。スイカをこのようにブドウ栽培のようにしているのを見かけました。狭いところで栽培する方法に、ネット栽培があり親づるを上に誘引し、子づるを地面に誘引して地上で結実させますが、重い実も空中では設備に費用がかかるのではないでしょうか。
(2009.08.07)
カメラを持って被写体を探しながら歩いていると、日頃気づかないものにも目が留まるものです。そんな気づかない小さな花を撮してみました。
(2009.08.05)
夏の早朝の散歩は、清々しくて気持ちのよいものですね。ある日、カメラを持って出かけてみました。スタートは、我が家の玄関先に植えた朝顔が沢山花を付けていました。
(2009.08.03)
星田園地その4。山の中を歩くように整備されていて、案内板も地図付きのところもありました。星のブランコ辺りまでは気軽に来れるところですが、その先はそれなりの服装・装備で登るところでしょう。名のとおり星座・星雲がよく観測できるところだと思います。
(2009.07.31)
   
星田園地その3。この園地のメインである「星のブランコ」と呼ばれている吊り橋です。長さ280m、幅1.2m、最高地上高は50mという大きな吊り橋です。横揺れをしないようになっているので、恐怖感はあまりないですが、吊り橋なので少しの揺れはあり、中央の50mのところから下を覗くと足が竦む感じはあります。秋の紅葉の季節にここからの眺めは素晴らしいものがあると思います。
(2009.07.29)
星田園地その2。山道を汗を拭き拭き登るとほどなく、高さ16.5mという「クライミングウォール」が現れます。写っている人と比べるとその大きさがわかります。山の岩登りより安全は確保されているのでしょうが、細いザイルに身を託して登るのは体力がいるのでしょうね。
(2009.07.26)
大阪府交野市にある府民の森「星田園地」に行きました。府民の森は、大阪府が府政100周年を記念し金剛生駒山系に整備した7つの園地の一つです。入園は無料ですが、駐車場は3時間600円以後1時間100円と高い。駐車場からこのような木の橋を歩いて山中に入っていきます。途中、初秋の花である萩が咲いていました。日陰の道端に大きなキノコが生えていました。松茸ならよいのですが・・・・
 (2009.07.23)
今年も「朝顔」を植えました。数日前から咲き始めました。夏の朝は、やはり朝顔が似合いますね。清々しさを与えてくれます。
 (2009.07.19)
久御山町東一口に「大池神社」がありました。この辺りはかって巨椋池(おぐらいけ)があり、昭和8年から昭和16年に行われた干拓事業で農地に変えられました。巨椋池は、周囲約16kmという当時京都府最大の「池」と言うより「湖」がふさわしい淡水湖だったそうです。この池に生息していた動・植物・魚貝類の鎮魂と農業の安全と繁栄を願って昭和10年に創建されたのが、この大池神社だそうです。
 (2009.07.16)
京都府久世郡久御山町東一口に、蓮を栽培されている農家(?)があります。見頃を迎えているという新聞記事があったので出かけてみました。田圃の一部に蓮が植えられていると思っていたのですが、大きな水鉢に植えられていました。よくある休耕田に植えられたものではなく、蓮が好きな方のようですね。
 (2009.07.13)
城陽市富野に「雨乞い地蔵さん」という案内板があります。梅雨の真っ直中のこの時期に雨乞いというのも何ですが、蓮池の祠の中に水瓶がありその中にお地蔵さんがおられるそうですが、このように水瓶はわかりますがお地蔵さんは見ることができません。水不足が深刻になるとお地蔵さんを引き上げ、常楽寺の住職が祈祷するそうです。このお地蔵さんは水が大好きなので、引き上げられると乾くので雨を降らせるのだそうです。伝説のお地蔵さんではありません。現在でもお地蔵さんの念力は抜群で、平成6年に行われた時は、祈祷中に雨が降ってきたそうです。どのようなお地蔵さんなのか見てみたいものですね。当時の写真を撮された方はいませんか?
 (2009.07.09)
上京区堀川通上立売に、民家に挟まれた小さなところに「山名宗全邸跡」の石碑があります。京の都を焦土化した応仁元年(1467)から文明9年(1477)の11年にわたり細川勝元と戦った「応仁の乱」の西軍大将です。東西の大将が共に病没により戦いは収まったのですが、11年間も戦争がよく続いたものですね。この辺りを西陣織で有名な西陣と言うのは、山名宗全が御所の西にあった自邸に本陣を置いたので西陣と呼ばれるようになったそうです。 『なれや知る都は野辺の夕雲雀あがると見ても落つる涙は』 (飯尾彦文左衛門)
 (2009.07.04)
百々橋と同じ通りに、茶道の家元である左から「今日庵」の裏千家、「不審庵」の表千家です。このような門構えを見ると茶道の心である「侘び・寂び」にはほど遠いものがあるように思います。茶道と縁が深い京菓子の俵屋吉富の店もありました。こちらは、持ちつ持たれつですね。
 (2009.06.30)
京都市上京区百々町にある「百々橋の礎石」です。百々橋は、応仁の乱(1467~1477)の戦場となった橋で、当時南北に流れていた小川に長さ約7.4m、幅約4mの橋でした。細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)がこの百々橋を隔てて数度にわたって合戦をおこなったそうです。当時は板橋だったのが、近世には石橋になり昭和38年に小川が埋め立てられる際に橋も解体されたそうです。46年前まで小川があり橋があったとは・・・何故埋め立てたのでしょうか。歴史都市京都がすることではないように思いますが・・・
  (2009.06.26)
  
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